あんどん 昔語り
  あんどん寄り合い
                                                                     
                                                            岩尾  競
 昭和四年前後は不景気のどん底であった。
 政府は緊縮と大きく印刷したポスターを全国に貼り、国民に倹約をすすめた。巷には失業者が増え栄養不足から
肺結核が蔓延し、生きんがため娘を水商売に売ったり、田舎でも乞食が街路に土下座していた。都会でルンペンと
いう言葉が流行したのもその頃だった。

   一
  「どうしますかね、こう不景気ではお互い生活が苦しいでしょう。あんどんを出せば付いて廻るものはやはり金です
がね」
 西方寺の御堂は一瞬シーンと静まり咳一ッしない。息さえこらえているような雰囲気だ。今晩は今年の夜高行灯に
ついての寄合だった。毎年四月に入ると直ぐ開かれる町内(表上町)の総寄合だ。顔触れは檀那衆から二人、一般
では関心の深い人が四・五人、若い衆が七・八人と子供が十人ぐらい集まっている.
 「国の緊縮にならって、遠慮すると言うこともありますがね、どうです皆さん考えてみて下さい」
 誰もが深刻な面持ちで俯いている。
「若い人達はどうかね、今年は一つ我慢して貫えますか、何分あんたら知っての通りの世の中ですからね」
   二
 若連中も子供もあんどんを出してほしかった。娯楽の少ない当時はテレビもラジオもなく、映画も何時も見せては貫
えなかった頃だ。
 三月、雪が消えると、もうあんどんの出る春祭のことを指折り数えて待っていた。小学校では新学期になると生徒ら
の話題はあんどんのことだ。
「お前の所であんどんを作り出したか?うちじや昨日からやり出したぜ」
「今年もやっぱり御所車か?」
「うん、御所車。去年、大分やられたから大人らは作るのが大変だとこぼしていたよ。」
「去年の喧嘩は面自かったな。新町にやられたがやったな。御所車の車が取られて屋根も半分壊されたもんな」
「新町の御輿も燃えて、屋根が骨だけになったじゃあないか」
「お前のとこ、作つているか?」
「うん、今晩、西源寺で寄合で、皆集まるそうだ、オラも見に行くよ」
こんな話が休み時間になると、あっちこっちで始まつた。
 僕は勉強はダメだったが体操と図画だけは良かった。授業時間中も先生の目を盗んでノートにあんどんの絵ばかり
描いていていた。あまり熱心に描いていたのである日、先生に見つかってしまった。先生は苦笑いしてノートを取り上
げて行った。
 僕らは他の町内の製作状況を偵察にも行った。どこまで進んでいるかを見にいくのだが、上級生などがいると上町
の奴は帰れと追い帰された。対抗意識があった。特に上り行灯のグループと下り行灯のグルーブは仲が悪かった。
膳所の城は立派だな、第一、町で一番大きいだろう」
褒めると横町の子供も
「お前の所の高御座など大したことないよ。だいだい喧嘩に弱いもんな」
 彼等は御機嫌になって中へ入れてくれた。平常、仲良い子供らもこと、あんどんになると対抗意識をむき出しにする
のだった。やはりあんどん即喧嘩がそうさせるのだ。春祭りが近づくに従ってエキサイトして行った。学校の帰りも町
内の者は何人かで一緒に帰った。それほどあんどんは子供を夢中にさせ異奮させていった。
 四月も二十日過ぎになると子供らは祭を待ち切れず真似行灯を出した。それは小さい田楽に竹を通し、その上部
に杉の葉を束ねて山車とし、前後にも杉葉の束ねたものを吊物として四、五人が一組になり別のグループと共に持
ち上げて廻り、夜高歌を歌って境内を歩き廻った。その中、ヨイヤサ、ヨイヤサと言って喧嘩を始めた。その内、本気
にやり出し、殴られて泣き出す奴も出た。勝ったグループはどちらであれ叫んだ。
「上町勝った。ワーイ、ワイ。横町負けたワーイワイ」

   三
 今檀那さんの話を聞いて若連中も子供らも躯の熱い血が凍ってゆくように思われた。オーバーに言えばあんどん故
に一年間働き、一年間通学しているような連中には非道く惨酷な言葉に聞こえた。血も涙もない人のように思われ
た。どの町内も檀那衆が首を縦に振ってくれなかったらあんどんは出ないのだ。それは、あんどんの費用は戸数割と
言って、金持ちが一人で、一戸以下の人の五十人分から百人分の割当金を負担したからだ。中には一町内の八割
以上負担する大地主もいた。
 当時、大行燈は横町だけで六本も出た。浦町三本、上町二本。それは横町は東から西へ六分割して各々が別々
に大行燈を出したからだ。従って十世帯から三十世帯の町内では担ぎ手が少なく、村部より人足を雇っていた。貧
盲の差が大きく檀那の力は大きかつた。
 寄合は沈黙の時間が三十分以上も続いた。子供らは泣き出したいような気持ちになって来た。夢も希望もなくなる
虚脱感におそわれた。青ざめた顔をしたのもいる。
「前川さん、さっきからのお話はごもっともでございます。不景気で倹約せんなんことはその通りでございます。そこで
若連中に経費を出来るだけ詰させて、飲み食いも三回を一回にしてでも出させてやって貰えんですけ。ここにいる子
どん達もさっきから泣くようにしております。可哀相に祭のあんどんごっこしておりますないけ、頼んこっちや出してや
って下はれ、私からもお願い致します。」
 静かな状況を破ったのは佐々木の父さんだった。旅人宿の主人で侠気のある人だった。
「さあさあ、若連中も子どん達も檀那様にお頼みせっしゃい。」
 みんな一斉にお頼みします、と頭を下げた。中には畳に頭をすり付けている若者もいる。三谷屋のオッサンなどは
飛び出した喉仏を上下させて左右を見廻し「良かった、良かった」と自分に言い問かせるように呟いた。前川さんも困
惑の色を顔に出して若連中に尋ねられた。
「去年までの人足賃は何んぼ出していたの?」
「はい、一円でした」若い衆頭が答えた。前川さんは隣の野原さんに相談された。
「野原さん、どうでしょうね、皆さんがこんなに頼んでいるが、人足の日当を八十銭ぐらいにしてもらって、どんなもんで
しょうね」
野原さんは温厚な顔の人で柔らかい声で答えられた。
「さあ、不景気な時節だけれども、何分神様をお迎えする行事ですさかえね、あんまり金がかからんようにして出すこ
とにしたらどうです、前川さん」
鳴呼、この一声、ありがたい一声だった。
「ありがとうございます」
「ありがとうございます」
 寄合はお開きになった。檀那さん二人は襟巻きをして帰って行かれた。若者の一人が下駄を揃えて最敬礼をした。
若連中は全員御堂の外まで出て
「おやすみなさいませ」
「おすずかにどうか」
 と言って見送っていた。子供らは手を叩いて喜ぶ者もいた。誰の目も輝いている。今年もあんどんが出るのだ、あん
どんが出るぞ! 子供らは顔を見合せて嬉々としていた。
 御堂を出ると、境内に十本ある桜がポッボツ咲きだしているのが、月に照らされてハッキリ見えた。子供らは願い
がかなった喜びで浮き浮きしていた。夜風も頬に心地よかった。
「佐々木の父さんが言うてくれっしゃんだら出んだかも知れんな。」
「よう言うてくれっしゃった。有難いちや。」
どの町内の太鼓か、遠くから春風に乗って聞こえて来た。

   四
 昭和初期は高等小学校を出ると都会へ奉公に行く者は約七割ぐらいいた。奉公とは徒弟制度のことで一人前にな
るのを約五年間と見て、その間、親方(主人)の家に住み込み衣食住の最低は与えられるが給料はなく小遣い程度
だった。年期明けまでは、家に不幸でもない限り帰宅は許されなかった。店員同志でも先輩は威張っていて小僧時
代は朝七時から夜十時まで働き通しで自分の時間などはなかった。
 食事も十分を越えると叱られた。女の子も中以下の家庭では目減らしのため女中奉公に出た者が沢山いた。とは
いっても小学校では貧官の差は間題でなかった。誰もがのびのびと遊んだ。教室に「よく学べよく遊べ」と書いたポス
ターが貼ってあった。生徒らは一部の子を除き、よく遊べを実行した。
 イワオも四月一目、夜汽車に乗って東京へ徒弟奉公に行った。奉公先の修行は十四歳の彼には苦しかった。小僧
は月一回の休みで小遣いも一円六十銭だった。もう少しすると春祭がやって来る。帰りたくても休みも汽車賃もなか
った。また、帰郷は許されなかった。
 五月一日が来た。今日はあんどんが出る目だ、と思うと仕事に身が入らない。今はあんどんを立てている時間だ、
立てた大行燈の上まで登るのが楽しみで、僕も大人になったら山車の上に乗ってやろう・・・。夕食が終わると、今頃
は太鼓がなっているだろう。あんどんに灯がともされ夜空に明るく聳えているだろう。やがて鉢巻きをしめて歌を歌
い、大行燈がひしめく四ッ角を通ってお宮さんへ行く興奮。
 四ツ角から上町通りにかけて大あんどんが十五本も並ぶのは壮観だった。当時の道路巾は狭く、大あんどんがす
り違える時はどうしても接触した。そこで小競り合いが起こった。が、人足あんどん(金持ちの町内)は喧嘩をしなかっ
た。喧嘩は町端の土地っ子の大勢いるあんどんだった。
 僕ら上りあんどんは子供あんどんとは言え、下りの大あんどんの横を通る時は恐い感じがして気がすくんだ。が、
自分の町内の大あんどんの横を通るときは元気が出た。唄声も自然と大きくなった。
『五條のオ〜、橋ィかァらァ、牛若ァ弁慶よ〜、け合ィ〜、はね合い、ササ弁慶負けエたァ、ササドッコイサノサ』
 大人達も『ヨイヤサ!ヨイヤサ!』と気合をかけてくれた。
担ぎながら見上げる大あんどんは、実に大きく且つ堂々として見えた。山車に片足だけ掛けて手を振ってくれる勇み
肌の若者、スコタン被りをした人足を叱吃する三谷屋のオッサンや雁田、杉原、大林の弟さん達の身姿に、子供らは
あこがれを持った。青年の持つ体臭にも力強さを感じた。
 喧嘩が始まり、ぶつかり合い、押し合い引き合い傾いてローソクの灯で燃え上がるのもある。喚声怒声、急接近す
るあんどんに将棋倒しになる見物人。あんどんの勇み太鼓がここぞとばかり力を入れて打ちまくる。拍子木の音と共
に上りあんどんが前進する。福野っ子を酔わせるあんどん三昧のクライマックスだ!
 唯々あんどんが恋しかった。ようやく仕事が済んで寝床に入ったのは十時を過ぎていた。彼は床に入っても中々眠
れなかった。目をつむるといろいろなシーンが走馬灯のように瞼にうつって仕方がなかった。勇み太鼓の音と拍子木
の音が強く追ってきて益々頭が冴えてきた。
 もう我慢できなくなった。彼は床から這い出して物干台へ上がって行った。夜も十一時になるとネオンもスズラン灯
も消えて都会といえども暗かった。
彼は故郷の方向をじっと見つめた。遥か山の彼方、何百里も離れた遠いところに福野があるのだ。望郷の念に胸が
熱くなり、涙がとめどもなく頬をつたった。
「ああ、帰りたい!」
 遠い山並みの上には、夜空に星だけが輝いていた。

                           「ふくの町立て散歩 福野時の会 1996年8月1日発行」 より

   岩尾  競氏談   福 野 夜 高

  [夜高に心は馳せる]
 今の子供達には理解してもらえないでしょうが、私達の子供の頃は、小学校を出ると大部分は、丁稚奉公に出され
たのです。だから遠く東京とか、大阪・京都などから五月祭りが近くなると、血が騒いだものです。ましてや、当日の
夜など今は、上町や七ツ屋など、どこを廻っているだろうか、どこで「けんか」しているだろうか………などを追憶しな
がら、子供の頃の行燈作りや、すりかえの時のスリル、けんかの時の怖さなど、次々に思い出していたものでした。
今の子供さん達は、娯楽が豊富でわからないでしょうネ。白分達の時は、行燈が最高の楽しみでしたがネ。

  [わが上町について]
 皆さんにちょっと覚えておいて欲しいのは、今の方々にうかうかと、浦上町という言葉を口にすると、感情をこわす
人がいて(裏上町と考え、町の裏側に住む卑しいと考えるらしい)いや、西上町西上町ですと言い直す人々がいま
す。これは間違い、この浦の浦は「サンズイ」偏の浦で、海岸と言う事です。福野町では、北に向かっている所を浦と
言い、海岸に近いと言う事です。
 この上町で言えば、金持ちの町が浦上町なのです。私の所は、表上町です。表上町は定塚さんの横の道で分れ
て、林芳太郎さんからこちら南の方です。
ですから、市兵ヱさから四ツ角までが浦上町となります。浦上町は、家数が少ないのに行燈を一本出していました
から如何に、大金持ちばかりいたかと言うことですネ。本福寺さん付近には家数は少なく、寺の向いに崎さんという
お医者さんで、横の方には、何軒かの長家があるだけでした。
 私の家の裏からは、安居山がすっきり見え、途中に障害となるものは何もなく、田圃がずっと続くだけでした。
今は、行燈を出すか出さないかと言う話はなくて、お金がいくら程かかるかとか、何時から製作を始めるかと言う事な
どが、話し合われるように変ってきました。
 戦争中に、行燈を出さないと中止命令が出たことがありましたが、町民の声が結集して大行燈だけ取り止め、中・
小行燈だけ出したこともありました。

  [行燈作りや台締め]
 上町の行燈の場合、台を始末しておく場所がなく、何時も分解して西方寺の縁の下に入れていました。七ツ屋は、
小屋や、広田さんの空地があって、作業が楽なようでした。
西方寺さんの御堂は、畳をまくって行燈作りの作業場として約一ヶ月余り使わせてもらったり、寄合をしたりしました
が、今では公民館へ移りました。
台締めは、まさじろさと野原さんの家の前で、電柱に百ワットの電灯をともして、行なったものでした。

  [行燈大きさの変遷と意味]
 大昔の行燈は、目茶苦茶に背高で三丈五尺(10.61m)一丈は十尺ですから、地上から三十五尺です。今の行燈
は、二丈一尺(6.36m)二十一尺ですから、比較しますと、如何に昔の行燈は大きかったかがわかるでしょう。これは
田楽だけでなく全体の大きさですよ。
 明治初期までの話ですが、電線がつき行燈の高さが低くなり、その後、電話線が引かれて、又、低くなりました
が、福野の町だけお願いをして、他町村より二尺高くしてあるのですよ。
夜高の名前は、昔、祭りの日、日が暮れて町では行燈に明かりを入れますネ、その頃合いに町を見ると、屋根が光
つて見えるし、屋根の上から行燈の「だし」の動く様子が見えたそうです。それは昔の家は低かったのと、行燈の高
さが高く屋根より十四尺も上に出たからですネ。そのようなことから、夜、高い所に出る行燈と言うことで、夜高と呼
ばれる様になったのです。始、夜の女と間違って、同字を書いた人もいたのですが、それは間違いです。
その頃の屋根は、板屋根が大部分でした。

  [裁許とは]
 私の子供の頃の四ツ角には、沼田旅館がぐっと出ていたので、今と違って大変狭い所でした。
そこへ、上り行燈は横町へ入らなければならず、下り行燈は、横町から浦町へ入らねばならない。浦町は、辰巳町
から御蔵町へ入ろうとする。その御蔵町は、一段と狭い。どの行燈も、それぞれの進むべき所へ早く入ろうと思うの
です。そこで各町の代表である裁許同志のかけ引きが始まるのです。このかけ引きには、腕ぶしの強い裁許か、人
間のけんかに強い裁許が勝って、やんぎりもんぎり通して行くのです。
だから裁許になるのは、金持ちの兄さんでは出来ないし、させてももらえなかったものです。力もあり、口も達ち、もく
しょ(強引)な者がなったのです。

  [行燈と費用や人夫]
 横町には、大行燈を六本も出したと言えば、皆さんは驚かれると思いますが、実際に出たのです。
東の方から言えば、橋東、二番が宮東、三番目が宮西、四番目は橋西、五番目が宮脇、終わりが西端です。ここ
は、柴田与吉さんの三叉路付近で、福野町一番の大きな膳所(ぜぜ)の城のダシを持つ行燈があります。行燈一歌
詞にもあるものです。
 どうして六本も出せたかといえば、それぞれの所々に金持ちがいて、家数が十軒であろうと、二十軒であろうと行
燈を出したものでした。
 では、かつぎ手(荷い手)などはどうなるかと言えば、不足する所では人足を雇い入れ補ってかついだのです。
そのかつぎ手は、口の村からそれぞれ補ったのです。横町は柴田屋・二日町が口村です。
上町は直接の口村はないので、上り下りの関係で、表上町は八塚、浦上町は寺家とか院林を頼んだものです。
浦町は松原・年代を頼んだのです。ここは、大行燈が三本あって、上浦町・中浦町・下浦町にそれぞれ一本ずつ出し
ました。上浦町とは、四ツ角から辰巳町入口まで、中浦町は、河合饅頭堂さんの横の道までで、後は下浦町です。
けんかをする行燈は、西横町と下浦町で、この行燈をけんか行燈、あばれ行燈といわれていました。
 後の行燈は人足がいるのでけんかはしないのです。それはけんかをすると来年から呼んでもらうことが出来なくな
るからです。
 西横町の膳所の行燈は、一番大きいので慰労金(山行き)の費用と製作費など、この一本だけで、今のお金で二百
万円位かかるでしょうネ。
行燈の費用は、昔、旦那さん(主に地主)が、お金を出したので、その権力が大きくて、一般の人は平身低頭でありま
した。

  [行燈の通り方と飾り方]
 行燈は車と同じように左側通行です。ただ一本の時は、真中を通り、すれ違いの時は左側通行となります。飾る場
所は、どの町内も一番おやっさん(資産家)の家の前となっていました。特に昔は厳重でして、浦上町は大有川さん
前、次は梅次郎さんの前、次の子供行燈は野原さんの前と決っていました。子供行燈が少ないのは、横町でした。
大人行燈が六本も出したが、かつげるのは、下の方の横町二本ぐらいだけで、他は戸数が少なく、人足でかついで
いましたから、子供もいなかった.わけですネ。 浦町の端には、子供行燈はありました。
七ツ屋は、右側の広田さんの前に飾り、子供行燈は、次の金持ちの家の前に飾りました。
横町では、橋東は沢崎さん、宮東は大森田さん、宮脇はお宮さんの手洗い所前、宮西は、柴田東作さん……。
 新町は、山田さんが、町内総費用の半分を出され、他は、桂井さん、活版所等が出されたそうです。ところが山田
さんの家の正面は、上町を向いていたので、そこに飾ることが出来ないので、田原(年代屋)の前に置かれていまし
た。その為新町の行燈は、出発の時間を十分早めに出て、山田家の前でしっかり止め、旦那さんに見てもらい、酒を
もらったものでした。この礼儀は必ず守ったので、上町通りに新町の行燈は何時も長く止っていたものでした。
 戦争中、区制度になって、今まで東上町であった駅前は、七ツ屋の加人となり、一本の行燈も飾られたことのなか
ったのが、福島さんと川田さんとの間に、中行燈を飾るようになりました。

  [行燈の上り下りと山車(だし)の製作]
 行燈の通り方には、上りと下りの行燈が(宮へ参拝に行くものを上り、参拝の終ったものを下り)(参拝の終了同土で
は、まだ他町の廻り方の多いものを上り、廻る町内の少ないものを下り)あります。これは、道路を行進する場合に、
上りの方に優先権があります。下りの行燈は、道の左側すみにめいいっぱいつけて待機したものです。
 ところが、福野町は、他町村より道路幅が狭く(現在、片側三尺、両方で一間地面を出して広くした)上り行燈が、そ
の左側を通る時、当然、相手の台に、こちらの台が触れ合います。すると触れられた側は、なぜケチをつけたとなじり
合い、遂にけんか(引き合い)となるわけです。
 福野町四町が、横町・浦町対新町・上町の対立となるのです。それに浦町から分家した辰巳町(新道)は、本家の
浦町方へ、上町の分家の七ツ屋は上町方へ。
 ただ町の中心部にある御蔵町は、初日は上町側で、二日日は浦町側につく日和見的な存在なのです。
"けんか"は、二日目が本格的に始まります。御蔵町は当然浦町側ですが、こちら側(上町・七ツ屋・新町)は、浦町と
けんかをしても、御蔵町とは引合をしないのです。もし手を出したりしたら、手を出した側が笑われるのです。だから、
絶対に手を出さないのです。
 (※ホームページ作者注、御蔵町は町の位置による練り廻し経路から考えると浦町側になる、御蔵町の北側が浦
町の田中家、南側が上町の有川家と二つの地主に分かれたことも理由だそうです。)
 その為、御蔵町は引合をしない代わりに、"優美さ"の追究を試み、よく行燈の作り変えを行いました。
戦後、商工会主催で美を競う催しを行うようになると、御蔵町は、塚本さんを中心に色々設計して、弁慶で優勝した
のを皮切りに連続的な優勝を見ました。
 でも私は、昔からの"あばれ行燈"に良い物が多い様な気がしてならないのです。それは、少し製作に携わった者
に言わせると、新町の御輿(みこし)・七ツ屋の舟鉾、これらは京都の祇園祭りの山鉾から取って来ています。例え
ば七ツ屋の行燈は、その舟鉾をデフォルメして、真ん中に人がはいるように台の高さを一尺四・五寸に圧縮したもの
なので、若い人達は、これを新しく作り替えようとしても、これ以上の作品を製作しないと、年寄連中の笑い者となる
ので、危ぶんで作ろうとしません。また、上町のように人がいなくて取り替えることが出来ない所もあります。ここは、
現在高御座(たかみくら)を出していますが、これの前までは、表上町の水波に鶴の山車でした。

     古老にきく 第二集        平成6年3月25日発行
    編集  福野町ボランティア    ともしび会あゆみグループ
    発行  福野町教育委員会   
             
         より一部掲載
         ※文章は、スキャナし、修正したため、誤字改行誤り、配置が見苦しですがご容赦下さい。
銀行四ッ角より南を望む 上町通り 昭和7・8年頃、銀行四ッ角より西を望む 横町通り 昭和10年頃(町史写真) 
         
                          
      「古老にきく」 挿絵        
ミニ行灯 
 膳所の城
  (横町 石黒さん所蔵)
 吊物は梅と兜、桜と亀
  
        3日、本祭の傘鉾、
 上町・七津屋曳山 と 屋台(庵屋台) 平成12年11月 新曳山蔵建設移転作業時、傘鉾は、 平
成14年の祭礼に撮影
  (曳山の 「山」は「車偏に山」、「車山」を縮めた文字を書きますが、
表記出来ないのでご了承ください) 左上の写真の額を参照
 上町・七津屋舟鉾曳山 と 横町曳山   平成14年5月3日撮影
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