行状曼荼羅
お大師(弘法大師)さまの御生涯を描いた図
弘法大師空海略年譜(774-835)和暦
西暦
年齢
その他の出来事
宝亀5
774
1
弘法大師空海讃岐の国(香川県)にてご誕生
不空三蔵入滅
延暦7
788
15
阿刀大足について、論語、孝経、史伝、文章等を学ぶ
延暦10
791
18
奈良の大学(明経科)に入学
大学中退、山野で修行する
794
平安遷都
延暦16
797
24
出家宣言書たる「三教指帰」を著し、儒教・道教・仏教の三教を批判的に検討する
この頃、求聞持法を授かる
この間の消息は、不明(阿波の太龍ケ嶽や室戸岬の洞窟(御蔵洞)などにて修業する一方、既にもたらされていた大日経やその他の密教経典にも接していたと思われる、また高野山にも既に足を運んでいた)
延暦22
803
30
藤原葛野麻呂を遣唐大使とする遣唐船、難波を出発4/16
遣唐船、嵐により航行不能の為帰還する5/22
延暦23
804
31
藤原葛野麻呂に再び節刀を授け、渡航の準備が完了する3/28
得度をする、東大寺戒壇院にて具足戒を受ける4/9
伝教大師最澄、橘逸勢らと遣唐使の留学生として出発5/12
唐の福州赤岸鎮に漂着8/6
福州を出発し長安へ向かう11/3
長安に着き宣陽坊の官宅に入る12/23
延暦24
805
32
西明寺に止宿し、インドの般若三蔵、牟尼室利三蔵から梵語やバラモンの宗教を学ぶ
青竜寺の恵果和尚を訪ねる(5)
恵果和尚より胎蔵(6)金剛界(7)の潅頂を受ける
伝法阿闍梨位の潅頂を受け、遍照金剛の潅頂名を授かる
恵果和尚入滅12/15
大同1
806
33
弟子を代表して恵果の碑文を撰する1/17
長安出発(2)
九州の太宰府に着く(10)
朝廷に「請来目録」を提出する10/22
大同4
809
36
京都に入る
弘仁1
810
37
東大寺別当になる
薬子の変
弘仁2
811
38
乙訓寺の別当になる
弘仁3
812
39
乙訓寺の別当を辞し、高雄山寺に帰る
高雄山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇11/15。入壇者には、最澄、和気真綱など。胎蔵結縁灌頂を開壇。12/14入壇者に最澄、泰範その他145名
弘仁4
813
40
伝教大師最澄からの「理趣釈経」借覧の申し出を断る
弘仁6
815
42
この頃「弁顕密二教論」を撰する
弘仁7
816
43
高野山の下賜を請う6/19、高野山開創の勅許を賜る7/8
弘仁9
818
44
勅許後始めて高野山に登る(11)
この頃「般若心経秘鍵」を撰する
弘仁10
819
46
高野山上七里四方に結界を結び、伽藍建立に着手し、始めに明神社を建立する
これ以後天長年間初頭にかけて「即身成仏義」「声字実相義」「吽字義」が撰述されたと思われる
弘仁11
820
47
一説に弟子を伴い、東国巡錫の旅にでる
弘仁12
821
48
讃岐の国の満濃池修築別当に任ぜられる
9月完成
弘仁13
822
49
東大寺に真言院を建立する
平城上皇に潅頂を授ける
弘仁14
823
50
東寺を給預される
嵯峨上皇に潅頂を授ける
天長1
824
51
神泉苑にて請雨経法を修する
天長2
825
52
東寺講堂建立
天長3
53
東寺五重塔建立に着手
天長5
828
55
日本初の庶民のための学校であるしゅ芸種智院を創立
この頃までに「秘密曼荼羅十住心論」「秘蔵宝鑰」を著す
天長8
831
58
病により大僧都を辞す
天長9
832
59
高野山にて万灯万華会を修し、願文に「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば我が願いも尽きん」という8/22
穀味を厭い、専ら禅定を好む
承和1
834
61
東大寺真言院にて「法華経」を釈し、「般若心経秘鍵」を講じる
承和2
835
62
諸々の弟子を集め遺告をする3/15
金剛峯寺、定額寺となる
3月21日弘法大師 高野山にてご入定