観音寺にお祭りしてあります大威徳天神さまは尊くも管原道真公が、御自ら絵筆を以で画かれました御神影であります。管原道真公のことを略して管公と申上げます。管公の祖先は垂仁天皇の詔を奉じで、タイマのケハヤと角力をとり、ケハヤを技げ殺し、角力界の守護神となられた野見のスクネであります。スクネは天皇に献策して殉死を禁じハニワを作ることになりました。当時土人形を作るものを土師と申しましたので、天皇から土師部臣という姓を賜りました。

管公の曾祖父、古人の代に領地の名をとり管原の姓を名乗られました。管公の父上は従三位参議管原の是善卿であり、母上は伴氏の娘でありました。管公は西紀八百四十五年(今より一千百余年前)仁明天皇の承和十二年六月二十五日京都の管原院で誕生せられました。幼名を阿呼と申し、よわいの質で、多病でありましたが、母上が観音さまを御信仰になり、祈りを捧げて病気を平癒させられましたので、ついに健康な身体となられました。
管公五才の時、弘法大師の投筆になる応天門の額を一心に眺めでから家に帰り、墨黒々「応天門」の三字を大きく見事に書かれたので、父上も驚かれたということであります。七才の時には紅梅殿で梅の花を眺めで

           うつくしき紅にも似たる梅の花

           あこが顔にもぬりたくぞ思ぶ

と詠まれ十一才の時には月夜梅華を見るという題で詩を賦されました。

           月は耀きて晴雪の如く 梅花照星に似たり

           憐むぺし金鏡の転ずるを 庭上の王房かんばし

十六才にして元服せられ名を道真と改め、より一層勉学に努められました。ついに大学寮を卒業、文章得業士となり正六位下を授けられ、下野潅少丞に 任ぜられました。時に二十三才てありましたo三十三才にして式部少輔に任ぜられ、文章博士となられました。管公は篤く仏教に帰依せられ、父母菩提のために、自らのみをふるつて観音の尊像を造り吉祥院といち寺を建て、法華会を開かれました。宇多天皇は、籐原氏の専横を抑へんが為め管公を登用せられ、ついには右大臣にまで昇進せしめられましたが、宇多天皇は三十二才で位を僅か十三才の醍醐天皇にゆずり落飾して仁和寺に入り、寛平法皇となり隠居せられました。醍醐天皇は御年若にましましたので籐原時平公等の「ざんげん」により、延喜元年一月二十五日、管公を太宰権師に左遷せられました。時に管公五十七才でありました。よつて、同年二月一日管公は京都を出発せられ、翌日摂州須磨の浦に着かれました。この里に橘の季祐という処士があり、常目頃、管公の御館に伺公していましたので、特に今回の不幸を歎き御慰間に参りました。管公も、その親切を喜ばれ、暫時休憩せられましたが、海岸のこととで適当な敷物もなく、漁師の網引ぎする網手繩をつかねて真砂め上に敷き円座となし奉りました。そこで管公は御簾中から使を以て贈られました旅の衣に召かへられまして一首の歌をお詠みになりました。

    きればうし、ぬけば名残りのをしまれて

    ふたたびぬるる旅ころもかな

その夜は季祐が家にお泊りになり、翌朝は御船で出発せられ無事太宰府に到着せられました。太宰府に於ての管公の生活は、まことに不自由な貧乏生活でありました。けれども公は一言半句も君を怨まず、如何なる悲惨な境遇に居られても、尚、君恩の深かりしことを感謝されたのであります。九月十日重陽の嘉節には、去年のことを追億せられ詩を賦されました。

      去年の今夜清涼に侍す秋思の詩篇独り断腸

      恩賜の御衣今此にあり捧特して毎目余香を拝す

管公は太宰府に居られること二年、五十九才の二月二十五日に死ぜられました。

そこで随臣、アジサケの安行等が相談致し違骸を安楽寺に葬り、天満大自在天神としてお祭りいたしました。これよりさき、橘の季祐は日頃の御恩を忘れずはるぱる九州の太宰府に管公を尋ね奉り、何くれとなく身辺の御世話を致しました。管公も深くその厚意を歓ばれ、季祐が帰る時に記念として、かつて須磨の浦に休み、よき風景を眺めたる姿を想い出されて、御自らその時のお姿を紙に画いて賜りました。季祐いたく感激し、故郷へ帰ると篤く尊敬し、子々孫々に伝えでいましたが、元亀年中摂州争乱の砌り、この御自画像が荒木撰津の守の手に移りました。前田又次郎秀継公が、この由来をお聞きになり菅公は前田家の御先祖なればとて、特に荒本摂津の守に請うて、この御自画像をゆずり受けられました。

観音寺は、白鳳七年法道上入の開基で、もと利波郡糸岡郷五社村にあり、宝憧院本覚山観音寺と号し弘法大師御作の聖観世音菩薩を本尊として祠り、木舟城の祈顧所でありました。天正九年七月六日城主石黒左近の将監、藤原盛行が織田信長のために亡されたので、前田右近将監管原秀継朝臣が天正十三年から本舟の城主となられました。然るに同年十一月二十九日大地震で城がつぶれ不幸にも秀継朝臣御夫婦が死なれました。依つて御世子前出又次郎利秀公が今石動城へ引移られました。此の時、観音寺も石動城下に移され護国安民の祈願所となりました。天正十七年六月には前田利秀公から威徳天神の御尊像を当寺に預けられ敷地並に毎年二十八俵の御供米を御寄附になりました。よつて当山にては、厳重に御供養申上げ、特に正月二十四日探夜には初天神の御法楽を捧げ、五月二十四日・二十五日には大祭を執行し、全町獅子舞を奉納しで神徳を讃仰して居る次第であります。

菅原道真公は、幼年から、文学に秀で、和歌、漢詩に通達せられ、書道の神としで崇敬られています。男子が生れたら必ず天神様を迎え、お正月には御鏡を供え、書初めを掲示して、その神徳にあやかるように努めで居ります。その御本地の神さまが観音寺の威徳天神様ですから一度は必ず御詣りして御拝礼下さい。

こち吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな

法道仙人は天竺の人なり、そのさき霊鷲山の中に仙人の苑あり。(天台大師観経の疏に曰く耆闍崛山は翻して霊鷲ゥ聖仙聖霊之に依って名づく。而住光明文句巻の一に曰く、耆闍崛山は釈論に翻ず鷲頭乃至仙人山西北に在り)四明の記に多く仙霊その中に隠れる。五百の持明仙(仏所説の明呪を任持して躯寿堅久を得、故に持明仙と云うなり)金剛摩尼法を修してみなよく道を得たりしかば須曳くの間に十方刹に遊んですなはち本処に還りけり、~力すでにかくのごとく。寿無量載を得て人天を化導し利uす。しかるに法道は其の一人にてぞありける。されはある時、紫雲に乗り仙苑を出て支那を経わたり百済を過ぎて吾日域に入り播州印南郡法華山に下りけり其の山を法華と号することは、八つの朶わかれたるがゆへに八軸に表して名けたりその時渓谷の中より五色の光を出しければ法道これを見て此こそ霊区なれとて居住をしめ常に法華を誦じかつ密観を修せり、護持する道具とては千手大悲の銅像仏舎利宝鉢のみにて余の長物はなかりける。一日多聞天王雲に駕し来たり法道に語りて曰く大仙久しく此に棲り我まさに正法を擁護し邦国を鎮撫すべし又牛頭天~形を西の峰に現じて曰く、我願わくば災いを除く役に任ぜんとその後に法道は千手宝鉢法を得てしかば天竜鬼~来往しかつ奉事しけりかくて常に鉢を飛ばして供養を受けたりければ州の人空鉢仙人とこれを称すされば生石大~の請うれければ鉢を石上に置るべし。さあらむ其の供物を奉らんとそれよりも其の地を空鉢怩ニなづけて今なお~祠の西南に在り。然るに大化元年秋八月に船師藤井公場の祖米を舟に載せて通るけるに法道その時鉢を飛ばして供物を乞たりしかば藤井の曰くこれは御厨の用事たる鴛トなり私の情にはまかしがたしとかかりければ其鉢すなわち飛び去て行きたりけるここにおいて船中の多くの米其の鉢に随って飛びつらなることたとえば鴈陣の山中に入るがごとし(名文珠記?巻六王勃籐王閣序に曰く鴈陣寒に驚ひて声衡陽之浦に断う又古文真宝巻三に出たり)藤井大いに驚ひて奔つて庵所に到り後悔懺謝して憐れみを乞うところに法道はこれを聞き笑って許諾しけり其の言おわるとそのままかの米石は前の如く飛び帰る其米千石ありしが更に遺失することなく只其の中にて一憑は南河の上に落ちけり此れより此の地には富める人多かりき世俗に此の処を名づけて米随村と号し又は米田とこれをいへりさる間藤井はキに入って事を奏問しけれは孝徳皇帝大いに感歎を加えたまう同き五年の五月に上不例の心地にておはしましけるに種々に医療をつくせども癒えたまざりければすなはち左僕射阿倍倉内に宣旨を下し法道を召して加護せしめおはしますその時に法道宮に入って持念せしかば玉体たちまち平復なちたもうこのゆえに六宮こぞりて拝をなせりかかりければ宮に止まること七日を経て釈門の奥旨を演弘められたり其の時にあたりて君臣ふかく嘆美に及ひけりこれに因って無遮会をこう設けらるそれよりも法道はただちに山に帰りける此の年山中に勅して大殿を建て所持したりける観自在の銅像及び仏舎利宝鉢を安置せり白雉元年九月に落成したれば上寺に幸したまいぬされば其の始め本朝の風俗~をのみ重んじて仏を軽しむといえども法道の真乗を唱えられるるに帰依しつつ天下翕然として心を仏道に翻せり同じき二年三月には宮中大蔵会あり三年季冬(十二月)には僧尼宮にて斎を行うこれみな法道の訓化によれりされば法道山に居ること数十歳なり一日衆に告げて曰く我本耆闍崛山の仙園に棲たりしが(耆闍崛山の仙園の事は前に註す)しばらく此に来って誘引化導せり今まさに帰るべしとてすなわち偈を説いて曰く我有情を化せんとして此の地に来る像鉢舎利羅を下す留(名義集に曰く舎利新には室利羅という或いは刹利羅此には骨身と云ひ又は霊骨と云う)一に斯境に求むる所得永く三途(三途は火途刀途血途也火途即ち地獄道也刀途即ち餓鬼道也血途即ち畜生道也本四解脱経の設なり大明法数巻の十一に出づ)を出て仏陀を見んといいおわりてすなはち大光を放ち飛んで雲中に入りさる程に法道は多く猿ノを営めるゆえゥ国住住に其の跡在り今なを存ぜるものこれ法道の遺徳なりと称美す。

本覚山観音寺は、白鳳七年法道上人の開基にして、もと越中国利波郡糸岡郷五社村にあり、宝幢院本覚山観音寺と号す。七堂伽藍林立し、盛んに仏法を弘通せしが、弘仁の頃、弘法大師北陸御巡化の砌り一夜止宿し給いしに、不思議なるかな金色の光明を放ち「我れは西方極楽浄土の教主阿弥陀如来なり、末世衆生済度の為に観世音菩薩の身を現ず、願くば汝観世音の像を彫んで永く六道輪廻の衆生を化益すべし」とありありとお告げありて、五色の雲に乗じて西方に去り給う。夢さめて後、大師実に仏の大悲深重なることを仰ぎ聖観世音菩薩の像を造り、安置し給う。天正十七年木舟の城主前田又次郎利秀公今石動へ築城せらるるや、観音寺も同時に当所へ移り、石動城の永久の祈願所となし給い。特に菅公御自画像威徳天神をも祭祀せしめ給いたり、依って今に至るまで法楽を勤修し、法燈いよいよ輝き霊験日々に新たにして、御利益を受くるもの数知れず、観世音菩薩は大慈大悲の故に身を三十三に分ち七難を去りて苦を抜き、七福を生じて福寿海の如く授け給う。殊に御本尊は大悲深重にましまし難病難産のうれいを救い、子孫の長久を守らせ給う。信仰の誠をいたすものは二世の諸願成就せずということなし。

観音堂   本尊  聖観世音菩薩

縁起













法道上人について
















































もう一つの大威徳天神のえんぎ