五箇山和紙紹介



 

 五箇山の手漉和紙は、かつては生業としての  夏の煙硝とならび極めて重要な位置を占めるものであった。その起源については定かではないが、天正年間に加賀藩の初代藩主前田利家に五箇山和紙十束を献上したという記録が残っており、この和紙産業が古くからの伝統産業であったことがうかがわれる。

















 

 明治三年の廃藩置県までは加賀藩の指定産物として百数十戸の家が、きわめて良質の和紙を作ってその需要に応えていたのであるが、以後、藩の保護政策を絶たれた五箇山製紙業は、大きな経済基盤の拠りどころを失い、経済的な打撃に耐えなければならなかった。
 しかし、明治も後半になると、大判製紙法を採り入れて生産向上をはかるとともに、製法、用具等の技術的改善に努め、その特徴をもって五箇山和紙に対する評価を一段と高からしめたのである。


 


 昭和二十年以降は、社会的に生活様式の変化と洋  紙業の発展におされ、和紙の需要は激減していく。
 だがそうした事態にのぞみながらも、この草深い五箇山の村里になお長い伝統の命脈を保ち続けようと、寒風に身をさらし、冷水に骨の髄の凍る思いで紙を漉く人々の姿がある。
 和紙に対する認識の高まりが五箇山の手漉紙を復活させ、雪に閉ざされた紙屋から懐かしい紙たたきの音を響かせるようになった。

















 
 紙漉全盛の往時には、まだ夜も明けやらぬうちから、どこかで「ペッタンペッタン」という音が聞こえ始めると、もうどこの家も寝てはおられない。
 「隣のトッツァ(親父)は、あせくらしいら(あわただしい)と紙たたきしゃる」と憎まれ口をききながらも、此方も負けずにたたき出す。
 このような気負った仕事への取りかかり振りの音を、『一犬影に吠ゆれば万犬声に吠ゆ』のたとえで、『紙屋の犬ころ』と皮肉ったが、冬の生産業だった紙漉作業は、こうして活気立った一日の始まりであった。




宮崎重美・池端滋、著『五箇山 失われる山びとの暮らし』(巧玄出版)218、219ページより抜粋させて頂きました。
















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