◆越中五箇山物語◆vol.25

※文章は五箇山在住の方から頂いたものをエッセイ式に掲載しております

五箇山の風景 〜冬編@非常事態かも〜

 かっこよさげなタイトルをつけてはみたものの、ここまで雪が降るのも正直コマリモノである。「豪雪」というよりは最初っから「災害」といったほうがわかりやすいくらいではないか。
 何が困るって、私のような走る「危険物体」にとっては、見てる周りもともかく、車を運転するこっちが怖いわけで、みなさんお互い気をつけましょうね、ということに尽きるか。
 除雪隊の皆さんのおかげで、毎日こんなスイスイに道路を走れるのはありがたいことこの上ないのであるが、この前、静岡のとある旅行会社の方と電話していて、どうも何かが根本的に違う、何が違うのだろうと考えて、ああ、そうだ、声のトーンがちがうんだ、というところに気がついた。太平洋側の人の声はやはりどこか明るくて、「風強いですよお、晴れててもさむいですよお」なんていう言葉が、相手には全く悪気はないのであるが、どうかすると恨めしく思えてくるのである。
 困る事、例を挙げればキリがないが、困ってばかりいてもしょうがないので、思い出を探す事にしよう。
 「雪」ということで思い浮かぶのは、俗にいう「56豪雪」である。
 「56豪雪」とは、その冬、殆ど降らなかった雪が、昭和55年の大歳から降り始め、正月三ヶ日もわさわさと降り続き、日本海側の物流・交通は完全に麻痺、大きな災害をもたらした寒波の通称だ。
 当時1年生、初めての冬休みというものを、「絵日記」や「いろはかるた」などの宿題をお友達に、楽しく過ごしていた。
 我が家では、暮れには臼と杵でお餅をつき、明るい時間に近くの銭湯で早風呂に入って、
 うそやろ、っていう位のご馳走を食べて、紅白歌合戦を見たあとはお寺さんに出向いて除夜の鐘を付き、続いて白山宮で初詣と、おみくじや巫女さんもない山の神社ではあるが、実にスタンダード、それなりに情緒豊かな日本のお正月を過ごし、今でも踏襲している。
 と、表向きは美しいが、坊主めくりで大人気ない大人たちの陰謀に泣かされた(坊主ばかりを引かされたのです)というのが、正月の思い出。
 その、初めての冬休み、正月三ヶ日を過ぎようとしていた頃、上の学年の人から学校の連絡網で、ということでかかってきた電話が、「冬休み、3日延びたって。」という内容のものだった。
 確か、6日(日)までの休みが9日まで延びて10日に登校ということだったと思う。
 うれしい!うれしい、ばんざあい!なんてブルーナ絵本のうさこちゃんのようなセリフを絵日記の吹きだしに付け、有意義に過ごすはず、だったのだが。
 その時はほんっとに家に閉じこもって何もしなかった、というかどこにも行きようがなかったのだ。
 今みたいに高速(五箇山ICはH12開設)も304号線(五箇山トンネルがS59春に開通するまでは冬季間通行止)もなく、156号線だけが平野部へ行ける手段であったため、その大動脈の除雪に手一杯で、その他の道はとても車が通れるような状態ではなかった。雪囲いもやっとかっと、軒下まで完全に雪に埋もれている。 家の中は電灯をつけないと真っ暗。
 大屋根に登ってダイビングしても、すぐ下に雪があるから別にどうってことはない。(危険だからまねしないでください)
 外に出ればどの家も除雪作業に一生懸命、近くのトンネルは、路上駐車が列をなし、「車庫」と化していた。
 正月を過ぎて生活は普段に戻り、といっても毎日クキおつけばっかりたべていたかも。
 久しぶりに登校した小学校、グラウンドはもちろん、1階部分まで完全に雪に埋まり、雪に掘った階段を降りて玄関へと入った。
 困ったのはその後。
 グラウンド横付けだったスクールバスが、冬は乗降が国道沿いのバス停だという。雪が積もって牛の背中のようになっている、人が踏んだ心細い雪道を、短い足で歩きながら何度踏み外し、雪にはまったことか。
 もちろんはまらない人もいるから、基本的にドンクサい私が悪い。だから尚更そういうダメージに弱い。ランドセルは重い、長靴に雪は入る、みんなには置いていかれる、一人で歩いているときにそうなると更に心細くて涙と鼻水が一緒になって・・・
 
 25年後、暮れゆく2005年。これはなんという豪雪名になるんだろう、平成だから38(さんぱち) とか56(ごーろく)豪雪ではなく、17@平成豪雪とかになるんだろうか、と思ってみたり。
 でも、月光に照らされて青白く浮かび上がる峰々に感動し、日が長くなって、そこはかとない春の気配にさえありがたさを感ずる、それは昔も今も変わらない、雪が降ってこその五箇山の風景。
 渡し船に乗った憶えもなく、ましてや歩いて峠を越えた事もない「わーりがよ、何がわかるがじゃー」、というご意見も多いとは思うが、そのようなご苦労をされた方々が、今日の五箇山を作り上げられた事はちゃんとわかっているつもり。
 「クキおつけ」、「リフトのないスキー場」、集落の正式な行事だった「兎狩り」や「雪上運動会」も、今の子にしてみれば「そんなことあったの?」みたいな話しなのだろうか。
 それがまた楽しくて、PTAの皆さん手づくりのおでんや、モツがおいしくて・・・。
 細く長く累々と受け継がれていた山の暮らし。それのひとつひとつがまた、物語になりうるということか。
 
 来年も書きたいと思いますので、みなさん宜しくお願いします。
 よいお年をお迎えください。
 
 おまけ
 地元の読者の方はご承知の事と思いますが、私が産まれた昭和49年2月、このときも雪が多かったそうです。名前も当然「雪」にちなんでとの事ですが、当時流行っていた「岡崎友紀」から字をもらった事まで話すと、笑いネタになってしまいます。
 ともかくそのような中、渡し船に乗って平野部の産院へ行った母親を、身内贔屓抜きで尊敬せずにいられません。診療所や、家で産んだ方みなさんも、もちろんです。

文章:@ゆっけ  2005.12

※写真はイメージです

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