◆越中五箇山物語◆vol.4

※文章は五箇山在住の方から頂いたものをエッセイ式に掲載しております

ところで、なぜ「世界遺産・五箇山」か、なぜ、「合掌造り」なのか

 五箇山の合掌造り集落2つが当時の文化庁から国史跡として指定されたのは
 昭和45年。(伝建指定はその後に平成5年のことであった)
 人がすんでいる地域を「国の史跡」として指定しその景観をかえられないように「指定」したのは日本で始めてだった。 相倉合掌集落
(人がすんでいる地域に対して、「伝統的建造物群保存地区」の法律がない時代、「登呂遺跡」などに適用した法律を持ってきたのだそうだ)
 一方で、五箇山の景観や、産業を劇的に変えた、庄川の電源開発は戦前、大正 末期から昭和にかけてのこと。この地域にも、下流から祖山ダム、小原ダム、成出ダムが次々に建造された。
 作業員の現地雇用と移住、それに伴う消費活動の発生、水没保証金で、その当時なりに、村は潤ったそうだ。  
 しかし、それまでの主産業のひとつであった材木の切り出し、川下りによる運送は当然不可能となり、水没境界線などの悲喜こもごも・・・など多々難あったそうで。  大がかりなダム建設を横目に、従来の養蚕や紙すき炭焼きなどで生計をたてながら人々は戦中を暮らした。
 ところが、戦後まもなく、国力の回復に伴い貿易が自由化するにつれ五箇山の産業というものは一気に壊滅的打撃を受ける。  職をなくした人々は都会へ出ざるを得なかった。 昭和39年当時
 都会への移住や、出稼ぎが一番多かったのは、昭和30年代から40年代だそうだ。
  空き家となった合掌造り家屋も、その珍しさにずいぶんと「身売り」され、生活形態も大きく変わりつつあった。
 (私の父の生家も北海道の帯広にありますし)
  当然村の戸数・人口は減り合掌造り家屋も減る一方だった、その時に村がこの景観を今護らねば永遠に失われてしまうと、村が、県や国が働きかけた結果が「史跡指定」だったということだ。  
 今をさかのぼる江戸時代、五箇山は加賀藩政の統治下に置かれていた。
 政治犯の流刑地として多くの人が流 され、あるいは鉄砲の火薬の原料である塩硝をつくるなど、藩にとって重大な機密を抱えていた、そんな側面をもっていた。
 人々の出入り往来は、当然厳しく管理され、独特の生活文化を構築し、現代まで守ってきた。  
 それが、合掌造りであり、数々の民謡、あるいは食文化なのである。  
 ちなみに白川郷は、幕府直轄の「御天領」。
 五箇山を統治する外様大名の前田藩とは、相反する立場、でもあった。 白川郷 写真提供:まーくん
 当然、国境には関所が置かれ、ここでも人の出入りは制限されていた。
 加賀の流刑人が、この地へ逃亡したと言う話も残っているくらいで。(流刑についてはまた今度ということで)
 そこが、言葉や、文化の違い、生活圏の違い、合掌家屋の微妙な構造の違いにつながるのであろう。
 (とはいえ、白川に用事があるときには白川の人を装い、五箇山に入りたいときは五箇山の人を装うなど、それなりに知恵を使って自由に行き来していたと言う話も聞こえてくる。聞けば、白川郷の住民も、 五箇山を通じて加賀藩へ塩硝を納めていたらしい)
 五箇山と白川郷の違い。
 たとえば、言葉はこうである。

 シチュエーション:お手伝いをして上げました、相手が「お礼」をいいました。
 
 五箇山 きがねなノエ(イ)
  
 白川郷 よしたよー(語尾上がり)

 標準語だと、ありがとー、とか、悪かったねー、となるのであろう。
 もっとベタな会話をしてみよう。

 あの人がまったく言う事を聞かなくて先生に叱られました
 
 五箇山 あのショーぐらいナーモ、
 ダイカラヒトツモ言う事聞かんサカイにシェンシェイにしかられてしもたがやってよ
 
 白川郷 あんのひと、まんでいうこときかんでー、
 先生に叱られてまったんやってー

 英語の学習風にいくと、こんな言葉からか。   白川郷 写真提供:まーくん

  五箇山 あんにゃ、まめなかい?
   
 白川郷 おい、まめなかよ? 
   
 英 語 How are you?

 この地を訪ねる機会があれば、ぜひお年寄りの方言にも耳を傾けて、聞き比べてみても、楽しいかもしれない。

文章:@ゆっけ

※写真はイメージです

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